小3のむすめは、週に1回だけ学校に通っている。
そんなむすめの将来を心配する夫は、ほかの子と同じように、週5で学校に通い、通常のクラスで学習をさせたいようだ。
だけど、「それって本当にむすめの幸せにつながるのかな」と、私は疑問に思っている。
年少の頃から集団生活に苦戦して、学習にもつまずいてしまったむすめを、「みんなと同じ型」にはめる。
それって、むすめが望んでいる生活ではない気がするのだ。
そこで、夫に、
「みんなと同じペースで学校に行けなくても、うまく活用して、本人が幸せに生きられる道を模索したらいいじゃないかな」
と提案した。
それに対する夫の返事は、
「ああ、じゃあ、学校には行かなくていいってことだね」
だった。
「ん?」と私の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
そんなこと言ってないよね?
時々、夫はこんなふうに、ゼロかヒャクかの発想になってしまうことがある。
このゼロかヒャクの思考は、生きづらさを生むと私は考えている。
私は、学校に通うにしても、いろんなグラデーションがあっていいと思っている。
大人だって最近は、フレックスタイム制だとか、在宅勤務とか、有給といった制度を使って、自分に合ったスタイルで仕事をしている人が多い。
なぜ子どもだけが、がっちり決められた枠で生活していかなければならないんだろう?
現在の教育制度は、時代の流れによって生まれたもの。
時代が大きく変わっている現在、教育だって変わっていけばいいと思う。
むすめだって、学校のすべてが嫌いなわけではない(今のところ)。
別室で静かに過ごしたり、やさしい先生方と話す時間は楽しみの一つにもなっているようだ。
完璧に通えたら、合格。少しでも休んだら不合格。
そんな基準で学校に通っていたら、毎日、地獄でしかない。
学校のことにかぎらず、何事も白黒つけすぎたら、苦しみが生まれる。
完璧か、そうじゃないかの二択でしか、物事を判断できないなんて、苦しくて仕方がない。
曖昧(あいまい)な部分を認められるかどうか。
この思考の柔軟性が生きづらさを手放すきっかけになる。
50点の出来の料理だって、家族で笑って食べられればいい。
時々、子どものことを怒っても、信頼関係があれば大丈夫。
いつも完璧に家族の話を聞けなくても問題なし。
ストイックに理想を追い求めるのはかっこいい生き方だとは思う。
けれど、やっぱり人間だから、「できる・できない」にグラデーションはあって。
自分が納得のいくような生き方ができればいいのかなと、私は思っている。
私も、気づいたら極端な発想になっていることがあって。
苦しくなったら、「ちょっと偏り過ぎてない?」と、自分に問おうと思う。
完璧じゃなくたって、生きていけるんだから。
キョロのプチ日記
2/9(月)は、疲れが出ていたので、ゆったりと過ごしました。
足のケガであまり歩けなかったり、むすめの不安が強い時期でサポートに労力がかかったりして、この数か月は「忍耐」という感じの日々です。
思い通りにならない時期ってありますよね~。
当たり前のことを当たり前にやって、嵐が過ぎ去るのを待つしかないですね。
夜はオンラインイベントに参加。
楽しい時間が過ごせました。









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